› カラスときこり › 2008年07月

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Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2008年07月31日

西荻巡業最終日

「板絵 雀蛤」
友人のアダムにもらった板を使っている。
カラス以外の鳥も、という要望で最近は雀を描く。雀もかわいい。
窓の外に餌台を置いて、観察に励んでいる。彼らはものすごく臆
病で用心深く、なおかつものすごく獰猛で喧嘩っ早い情熱家だ。
彼らに比べたらカラスは冷静沈着、温厚な賢者のようだ。


本日西荻の数寄和、個展最終日。
お昼くらいから在廊予定。
ギャラリー向かいにHUGEヒュージといううまいカレー屋があって
ここのところ数寄和に行く日は必ずそこで昼を食べている。
どこか地味で目立つところは無いけれど、「そこにうまいカレー
さえあればもうそれでいいではないか」というような、なんとも
言葉を必要としないような、力のあるカレーである。
ご飯の量や辛さをお好みで調整してくれるのもうれしい。激辛に
したい。食後にお好みでコーヒーなど付けてくれるのもうれしい。
レギュラー・ホットをブラックで飲みたい。
さて今日は何カレーを食おうか。


山では、、法久ではカレーを食べているだろうか。法久のカレー
も うまいんだよなあ。インド風で。ビールが合う。みんな真っ黒
に日焼けして楽しく働いてるかなあ。あるいは音遊びかなあ。  


Posted by waka at 08:27Comments(0)美術

2008年07月28日

『北極カラスの物語』


『北極カラスの物語』
講談社文庫
C.W. ニコル, 森 洋子訳
を読んだ。


カラス、キツネ、オオカミ、北極圏に生きる動物達が、それぞれ
にそれぞれの言葉で物語る。

生きている彼ら動物達が自分の口を以って語る点は、佐藤幸子
『ジーンとともに』や、あるいは中勘助『鳥の物語』を思わせる、
ぼくの好きなスタイルだ。
しかしここでのそれぞれは、同じ季節同じ瞬間に生きており、
互いを目撃し、関係を結び、時には両者が一つの体となる(食う
食われる)こともあるから、全体が一つの大きな物語になってい
る点は大きな違いだ。

冒険と空腹の後に来るラストの饗宴、そしてエンディングに読者
の想像を掻き立てるような希望を含んだ別れが用意されるという、
これも古典的な物語の一定型を思わせる。
この古典的定型のその起源は、おそらく子どもの頃に誰もが過
ごしたようなある楽しい一日の
流れにあるから、かつて子どもだった人のみんなが、いつでも懐
かしく感じる普遍的な魅力があるのだろう。
あるいはもっと深いところに眠る、原始時代の人類の記憶であろ
うか。

物語全体を一つにまとめようとしているような
(「まとめている」のではなく「まとめようとしている」かんじなのだ)
語り部的な存在である老ガラスの語り口も、どこかおかしみがあり、
好感にあふれる。

屈託無く、生き生きと己を生きている彼らが物語る言葉は、無駄が
無く、いつも輝かしくいつも
愛すべきものに思えた。自分も生ける物としてこうありたいな、と思
う。
そして一方、頭のなかだけの思想、正しいか正しくないかなどとい
う学校的な価値観や人間社会の倫理観がいかにくだらない無味乾
燥なものかと、顧みるのだ。

食うということ、命を食らいその力を得て自分の命をつなぐという至
極真っ当な感覚も忘れたくないと思う。


ぼくがこうしたレビューを書く本には、これまで義姉の薦めで読んだ
ものが多いけれど、この本も同じくである。
C.W.ニコルの本はもともと好きだけど、その中でも一番好
きな作品になった。
(もちろん「カラスの出てくる本」ということが外せないポイントであっ
たことは言うまでも無い。カラスを扱う物語としても最も好ましい作
品の一つになった)


(ミクシィのレビューに同じ)  


Posted by waka at 12:12Comments(0)本を読む

2008年07月17日

展覧会「像(かたち)」について

展覧会ご案内
場所は東京の西荻窪です。詳しくは数寄和ホームページをご覧下さい。
2004年修了制作「像(かたち)」9点連作のうち5点を展示させていただきます。
(大津での展示内容については未定ですが、また改めてご報告します)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



若山 卓「 像(かたち) 」

岩手に祈りの対象として残る「破損仏」。
それらは朽ちてなお、人体像として充実した形態あるいは
濃厚なリアリティを見せている。 あたかも肉がそぎ落とされて、
その強烈な魂だけが残り、露出しているようである。 (作者談)
杉板に墨、岩絵具、木炭を用いて制作した大作をぜひご高覧下さい。

■ 数寄和

2008.7.19(土)- 7.31(木)
11:00-19:00  日休
作家在廊7・19、26、31
東京都杉並区西荻北3-42-17
03-3390-1155
www.sukiwa.net


■ 数寄和大津

2008.8.17(日)- 8.31(日)
11:00-18:00  火休
作家在廊日8・17、18、31
滋賀県大津市神領3-2-1
077-547-3209
www.sukiwa.net/otsu

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

数寄和ホームページ
http://www.sukiwa.net/

「像(形)」武蔵野美術大学ホームページより
http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/2004/2004sotu/depart/in-jp.html




展覧会「像(かたち)」に向けての雑文   抄



 修了制作 「   像   (かたち) 」 について

 2003年7月初旬、岩手の浄法寺、成島毘沙門堂、鞍迫観音堂、東楽寺、
松川二十五菩薩堂などを取材。

当地には平安時代後期華やかな仏教文化が花開き、多くの優れた木像が
残されたが、私が注目したのはいわゆる破損仏である。いつの時代かの繁栄の
後、廃寺となり、忘れ去られ風雨にさらされるままになった仏像、また明治の
廃仏毀釈で焼かれ黒い炭の塊となった仏像たちが、当地にはいまも祈りの対象
として多く残されている。
 顔が顔とはわからぬほどに焼かれたもの、手足のないトルソ、腰から下のみの塊。
しかし、それらは朽ちてなお、人体像として充実した形態、あるいは、濃厚な
リアリティを見せつけている。あたかも、肉がそぎ落とされてその強烈な魂だけが
残り、露出しているようでもある。

 本作品は私がこれまで取り組んできた絵画による人体表現の一つのまとめに、
これらの破損仏を人体像と捉え描く試みである。9点それぞれに元になる仏像は
あるが、作品はあくまでも人体像として私が捉えなおしたものとなっている。

サイズ  :縦約210㌢×横約110㌢、厚さ約10㌢、9点の変形画面
支持体  :杉板(西多摩郡日の出町 下野博栄氏)
使用画材:三千本膠、鹿膠、画用木炭、銅粉、墨、胡粉、岩絵の具、水干
展示   :2004年1月30、31、2月1、2日(武蔵野美大修了制作展)
     同年2月21~26日(東京都美術館五美大展、「像」9点のうち2点のみ展示)
同年4月(武蔵野美大修了制作選抜展、美術資料図書館展示室)



<追記> 当地は今年、地震の被災地となってしまった。
当時フィールドワークで突然訪ねていった一美術学生の自分を快く
お世話してくださった土地の方々のことを思い出し、心を痛めている。
                   2008年7月  若山 卓




(無題)

「像」連作はもう4年前の作品で当時学内の展示でご覧になられた方も多い作品です。
自分のなかでも“昔の作品”という気持ちがありますが、やはり思い入れの深い代表作
でもあり、このたび紹介してくださることになりました。

この4年間、三度ほど公募展への出品や、数寄和の企画展のための小品、水彩の
新聞挿絵などはありますが、作品数も少なく、一方で絵描きとは極端に程遠い仕事
である森林組合の仕事(きこり)に身を入れてきました。
しかし、この木に関わる仕事は、“朽ちた木像の美に触れそれを杉板に描いた”「像」の
時から、意外に近くつながってると思っています。
様々な人との出会いも含めて自分にとってはしぜんな成り行きだったと思っています。
木に描くこと。鳥やカラスとの出会い。樹木という大きな命と向かい合うこと。植物や虫という
小さな命を感じること。それらはそれぞれが唐突にはじまったわけではなく、つながっている
のです。たぶん・・・。




(無題)

高崎高島屋では4年ぶりに「像」連作を展示させていただいた。大学外でははじめての
発表だった。
絵画というものは観る者一人一人が自分の目で、過去の経験や記憶を通してしか、結局は
観られないのだと思う。
だから今回高崎の展示での人々それぞれの反応はそれぞれが全く違うので自分の作品の
在り方を考える上でよい勉強になったと感じている。
思いがけなかったけれど、非常につらい反応があった。その直後あらためて独り展示会場の
真ん中に立ち「像」と対峙しながら、少しの間涙が止まらなかった。
具体的には今は述べることができない。今は胸に秘めて、よく考えたいと思っている。
作品とは何なのか。こういうものを作り出すということは、どういうことなのか。自分とは。
こうした根源的な命題にはほとんど答えなど見つからないのだけど、しかし、自問しなければ
いけない時なのだと思っている。  


Posted by waka at 07:47Comments(0)美術