2008年07月17日
展覧会「像(かたち)」について
展覧会ご案内
場所は東京の西荻窪です。詳しくは数寄和ホームページをご覧下さい。
2004年修了制作「像(かたち)」9点連作のうち5点を展示させていただきます。
(大津での展示内容については未定ですが、また改めてご報告します)
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若山 卓「 像(かたち) 」
岩手に祈りの対象として残る「破損仏」。
それらは朽ちてなお、人体像として充実した形態あるいは
濃厚なリアリティを見せている。 あたかも肉がそぎ落とされて、
その強烈な魂だけが残り、露出しているようである。 (作者談)
杉板に墨、岩絵具、木炭を用いて制作した大作をぜひご高覧下さい。
■ 数寄和
2008.7.19(土)- 7.31(木)
11:00-19:00 日休
作家在廊7・19、26、31
東京都杉並区西荻北3-42-17
03-3390-1155
www.sukiwa.net
■ 数寄和大津
2008.8.17(日)- 8.31(日)
11:00-18:00 火休
作家在廊日8・17、18、31
滋賀県大津市神領3-2-1
077-547-3209
www.sukiwa.net/otsu
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数寄和ホームページ
http://www.sukiwa.net/
「像(形)」武蔵野美術大学ホームページより
http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/2004/2004sotu/depart/in-jp.html
展覧会「像(かたち)」に向けての雑文 抄
修了制作 「 像 (かたち) 」 について
2003年7月初旬、岩手の浄法寺、成島毘沙門堂、鞍迫観音堂、東楽寺、
松川二十五菩薩堂などを取材。
当地には平安時代後期華やかな仏教文化が花開き、多くの優れた木像が
残されたが、私が注目したのはいわゆる破損仏である。いつの時代かの繁栄の
後、廃寺となり、忘れ去られ風雨にさらされるままになった仏像、また明治の
廃仏毀釈で焼かれ黒い炭の塊となった仏像たちが、当地にはいまも祈りの対象
として多く残されている。
顔が顔とはわからぬほどに焼かれたもの、手足のないトルソ、腰から下のみの塊。
しかし、それらは朽ちてなお、人体像として充実した形態、あるいは、濃厚な
リアリティを見せつけている。あたかも、肉がそぎ落とされてその強烈な魂だけが
残り、露出しているようでもある。
本作品は私がこれまで取り組んできた絵画による人体表現の一つのまとめに、
これらの破損仏を人体像と捉え描く試みである。9点それぞれに元になる仏像は
あるが、作品はあくまでも人体像として私が捉えなおしたものとなっている。
サイズ :縦約210㌢×横約110㌢、厚さ約10㌢、9点の変形画面
支持体 :杉板(西多摩郡日の出町 下野博栄氏)
使用画材:三千本膠、鹿膠、画用木炭、銅粉、墨、胡粉、岩絵の具、水干
展示 :2004年1月30、31、2月1、2日(武蔵野美大修了制作展)
同年2月21~26日(東京都美術館五美大展、「像」9点のうち2点のみ展示)
同年4月(武蔵野美大修了制作選抜展、美術資料図書館展示室)
<追記> 当地は今年、地震の被災地となってしまった。
当時フィールドワークで突然訪ねていった一美術学生の自分を快く
お世話してくださった土地の方々のことを思い出し、心を痛めている。
2008年7月 若山 卓
(無題)
「像」連作はもう4年前の作品で当時学内の展示でご覧になられた方も多い作品です。
自分のなかでも“昔の作品”という気持ちがありますが、やはり思い入れの深い代表作
でもあり、このたび紹介してくださることになりました。
この4年間、三度ほど公募展への出品や、数寄和の企画展のための小品、水彩の
新聞挿絵などはありますが、作品数も少なく、一方で絵描きとは極端に程遠い仕事
である森林組合の仕事(きこり)に身を入れてきました。
しかし、この木に関わる仕事は、“朽ちた木像の美に触れそれを杉板に描いた”「像」の
時から、意外に近くつながってると思っています。
様々な人との出会いも含めて自分にとってはしぜんな成り行きだったと思っています。
木に描くこと。鳥やカラスとの出会い。樹木という大きな命と向かい合うこと。植物や虫という
小さな命を感じること。それらはそれぞれが唐突にはじまったわけではなく、つながっている
のです。たぶん・・・。
(無題)
高崎高島屋では4年ぶりに「像」連作を展示させていただいた。大学外でははじめての
発表だった。
絵画というものは観る者一人一人が自分の目で、過去の経験や記憶を通してしか、結局は
観られないのだと思う。
だから今回高崎の展示での人々それぞれの反応はそれぞれが全く違うので自分の作品の
在り方を考える上でよい勉強になったと感じている。
思いがけなかったけれど、非常につらい反応があった。その直後あらためて独り展示会場の
真ん中に立ち「像」と対峙しながら、少しの間涙が止まらなかった。
具体的には今は述べることができない。今は胸に秘めて、よく考えたいと思っている。
作品とは何なのか。こういうものを作り出すということは、どういうことなのか。自分とは。
こうした根源的な命題にはほとんど答えなど見つからないのだけど、しかし、自問しなければ
いけない時なのだと思っている。
場所は東京の西荻窪です。詳しくは数寄和ホームページをご覧下さい。
2004年修了制作「像(かたち)」9点連作のうち5点を展示させていただきます。
(大津での展示内容については未定ですが、また改めてご報告します)
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若山 卓「 像(かたち) 」
岩手に祈りの対象として残る「破損仏」。
それらは朽ちてなお、人体像として充実した形態あるいは
濃厚なリアリティを見せている。 あたかも肉がそぎ落とされて、
その強烈な魂だけが残り、露出しているようである。 (作者談)
杉板に墨、岩絵具、木炭を用いて制作した大作をぜひご高覧下さい。
■ 数寄和
2008.7.19(土)- 7.31(木)
11:00-19:00 日休
作家在廊7・19、26、31
東京都杉並区西荻北3-42-17
03-3390-1155
www.sukiwa.net
■ 数寄和大津
2008.8.17(日)- 8.31(日)
11:00-18:00 火休
作家在廊日8・17、18、31
滋賀県大津市神領3-2-1
077-547-3209
www.sukiwa.net/otsu
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数寄和ホームページ
http://www.sukiwa.net/
「像(形)」武蔵野美術大学ホームページより
http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/2004/2004sotu/depart/in-jp.html
展覧会「像(かたち)」に向けての雑文 抄
修了制作 「 像 (かたち) 」 について
2003年7月初旬、岩手の浄法寺、成島毘沙門堂、鞍迫観音堂、東楽寺、
松川二十五菩薩堂などを取材。
当地には平安時代後期華やかな仏教文化が花開き、多くの優れた木像が
残されたが、私が注目したのはいわゆる破損仏である。いつの時代かの繁栄の
後、廃寺となり、忘れ去られ風雨にさらされるままになった仏像、また明治の
廃仏毀釈で焼かれ黒い炭の塊となった仏像たちが、当地にはいまも祈りの対象
として多く残されている。
顔が顔とはわからぬほどに焼かれたもの、手足のないトルソ、腰から下のみの塊。
しかし、それらは朽ちてなお、人体像として充実した形態、あるいは、濃厚な
リアリティを見せつけている。あたかも、肉がそぎ落とされてその強烈な魂だけが
残り、露出しているようでもある。
本作品は私がこれまで取り組んできた絵画による人体表現の一つのまとめに、
これらの破損仏を人体像と捉え描く試みである。9点それぞれに元になる仏像は
あるが、作品はあくまでも人体像として私が捉えなおしたものとなっている。
サイズ :縦約210㌢×横約110㌢、厚さ約10㌢、9点の変形画面
支持体 :杉板(西多摩郡日の出町 下野博栄氏)
使用画材:三千本膠、鹿膠、画用木炭、銅粉、墨、胡粉、岩絵の具、水干
展示 :2004年1月30、31、2月1、2日(武蔵野美大修了制作展)
同年2月21~26日(東京都美術館五美大展、「像」9点のうち2点のみ展示)
同年4月(武蔵野美大修了制作選抜展、美術資料図書館展示室)
<追記> 当地は今年、地震の被災地となってしまった。
当時フィールドワークで突然訪ねていった一美術学生の自分を快く
お世話してくださった土地の方々のことを思い出し、心を痛めている。
2008年7月 若山 卓
(無題)
「像」連作はもう4年前の作品で当時学内の展示でご覧になられた方も多い作品です。
自分のなかでも“昔の作品”という気持ちがありますが、やはり思い入れの深い代表作
でもあり、このたび紹介してくださることになりました。
この4年間、三度ほど公募展への出品や、数寄和の企画展のための小品、水彩の
新聞挿絵などはありますが、作品数も少なく、一方で絵描きとは極端に程遠い仕事
である森林組合の仕事(きこり)に身を入れてきました。
しかし、この木に関わる仕事は、“朽ちた木像の美に触れそれを杉板に描いた”「像」の
時から、意外に近くつながってると思っています。
様々な人との出会いも含めて自分にとってはしぜんな成り行きだったと思っています。
木に描くこと。鳥やカラスとの出会い。樹木という大きな命と向かい合うこと。植物や虫という
小さな命を感じること。それらはそれぞれが唐突にはじまったわけではなく、つながっている
のです。たぶん・・・。
(無題)
高崎高島屋では4年ぶりに「像」連作を展示させていただいた。大学外でははじめての
発表だった。
絵画というものは観る者一人一人が自分の目で、過去の経験や記憶を通してしか、結局は
観られないのだと思う。
だから今回高崎の展示での人々それぞれの反応はそれぞれが全く違うので自分の作品の
在り方を考える上でよい勉強になったと感じている。
思いがけなかったけれど、非常につらい反応があった。その直後あらためて独り展示会場の
真ん中に立ち「像」と対峙しながら、少しの間涙が止まらなかった。
具体的には今は述べることができない。今は胸に秘めて、よく考えたいと思っている。
作品とは何なのか。こういうものを作り出すということは、どういうことなのか。自分とは。
こうした根源的な命題にはほとんど答えなど見つからないのだけど、しかし、自問しなければ
いけない時なのだと思っている。
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