2012年07月12日
展覧会キャプションより
4月の展覧会の記録。キャプションより。
板絵のカラスたち
2006年、伐採木にあった巣から拾われたカラスの子を育てた。以来私の心にはカラスが住み着いている。
ちょうど同じ頃から、縁あって前橋熊野神社のお神楽衆に加えさせていただいているが、熊野神社のご眷属(家来・使い)は八咫烏(ヤタガラス)と呼ばれる三本足のカラスである。
日本神話で、神武の東征の際に、熊野から大和への、険しい山岳・大森林地帯を道案内したそうだ。
普通のカラスは、これまでよく描いてきたが、今回はじめてヤタガラスを描かせていただいた。
きこりの私は毎年春から夏にかけて、カラスの巣のある木を伐ってしまうことがある。
昨年は幸いにも営巣中の巣は無くて、みんな古巣ばかりだった。
それでもカラスは古巣にもこだわりがあるらしく、監視の目を怠らず、ときには伐採反対の抗議の声をあげる。
カラスの巣は構造材として、よく針金ハンガーや古い針金が建材として使用されており、この針金を誤ってチェンソーで伐ってしまうと、刃がこぼれて切れなくなるというきこり泣かせな存在でもある。
私の場合はそれに加えて、カラスの子を育てて以来、カラスのことを心から愛しているので、精神的にも、自分は難しい立場なのである。
カラスにとってきこりは生活破壊者である。そして私は生活のために木を伐る。
しかし美しいカラスたち。いつも前向きなカラスたち。
カラスに対するあらゆる思いをこめて描きました。
(作品部分)
馬の像
哲学者の内山節氏の文章の中に馬頭観音にまつわる挿話がある。一般的な馬頭観音の由来としては、事故で命を落とした馬の霊を慰めるために、その馬が死んだ場所や、旅の安全を祈願して馬が集まる街道の辻などに建てた供養塔であるというのが、よく聞かれる話だと思う。
それが上野村のある家には少し趣が違う話しが言い伝えられているという。
山の中には時空の裂け目がある。裂け目に誰かが落ちると死んで、裂け目は埋まる。人にはその裂け目は見えないのだが、馬にはそれが見える。馬は人間がそこに落ちて死なないようにと自らその裂け目に入り命をなげうって、人間の身代わりになった。馬が事故死するのはそういうときで、あるときそのことに気づいた人間が、馬頭観音を建てた。
なんとも不思議な話だが、内山節ファンの私にとって特に好きなエピソードのひとつである。そして、この話は馬の性質を考えるとそう突飛な話でもないと、私は思っている。
人の気付かないものにも馬はよく気が付く。馬は非常に繊細かつ敏感でありながら、一方、人間のためにどこまでも勤める非常な寛容さも持ち合わせている。
人類には本当に得難く、有難い友であったといえる。
馬という種族への感謝の祈りを込めて、私も私にとっての馬頭観音を描きたい。
(仏画における馬頭観音は、装飾の一部に馬があしらわれてはいますが、観音形座像や仁王形立像などのような人の形をした像が普通のようです)
板絵のカラスたち
2006年、伐採木にあった巣から拾われたカラスの子を育てた。以来私の心にはカラスが住み着いている。
ちょうど同じ頃から、縁あって前橋熊野神社のお神楽衆に加えさせていただいているが、熊野神社のご眷属(家来・使い)は八咫烏(ヤタガラス)と呼ばれる三本足のカラスである。
日本神話で、神武の東征の際に、熊野から大和への、険しい山岳・大森林地帯を道案内したそうだ。
普通のカラスは、これまでよく描いてきたが、今回はじめてヤタガラスを描かせていただいた。
きこりの私は毎年春から夏にかけて、カラスの巣のある木を伐ってしまうことがある。
昨年は幸いにも営巣中の巣は無くて、みんな古巣ばかりだった。
それでもカラスは古巣にもこだわりがあるらしく、監視の目を怠らず、ときには伐採反対の抗議の声をあげる。
カラスの巣は構造材として、よく針金ハンガーや古い針金が建材として使用されており、この針金を誤ってチェンソーで伐ってしまうと、刃がこぼれて切れなくなるというきこり泣かせな存在でもある。
私の場合はそれに加えて、カラスの子を育てて以来、カラスのことを心から愛しているので、精神的にも、自分は難しい立場なのである。
カラスにとってきこりは生活破壊者である。そして私は生活のために木を伐る。
しかし美しいカラスたち。いつも前向きなカラスたち。
カラスに対するあらゆる思いをこめて描きました。
(作品部分)
馬の像
哲学者の内山節氏の文章の中に馬頭観音にまつわる挿話がある。一般的な馬頭観音の由来としては、事故で命を落とした馬の霊を慰めるために、その馬が死んだ場所や、旅の安全を祈願して馬が集まる街道の辻などに建てた供養塔であるというのが、よく聞かれる話だと思う。
それが上野村のある家には少し趣が違う話しが言い伝えられているという。
山の中には時空の裂け目がある。裂け目に誰かが落ちると死んで、裂け目は埋まる。人にはその裂け目は見えないのだが、馬にはそれが見える。馬は人間がそこに落ちて死なないようにと自らその裂け目に入り命をなげうって、人間の身代わりになった。馬が事故死するのはそういうときで、あるときそのことに気づいた人間が、馬頭観音を建てた。
なんとも不思議な話だが、内山節ファンの私にとって特に好きなエピソードのひとつである。そして、この話は馬の性質を考えるとそう突飛な話でもないと、私は思っている。
人の気付かないものにも馬はよく気が付く。馬は非常に繊細かつ敏感でありながら、一方、人間のためにどこまでも勤める非常な寛容さも持ち合わせている。
人類には本当に得難く、有難い友であったといえる。
馬という種族への感謝の祈りを込めて、私も私にとっての馬頭観音を描きたい。
(仏画における馬頭観音は、装飾の一部に馬があしらわれてはいますが、観音形座像や仁王形立像などのような人の形をした像が普通のようです)
Posted by waka at 20:47│Comments(0)
│美術
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